生い立ち ( 先祖について ) NO.3

画像

玄関の植木鉢で

咲いていました。



5年ほど前に詳細な家系図を息子の手を借りて作成しています。両親や祖父母の住所を管轄していた市役所や町村役場に行って、戸籍謄本をたくさん集めました。私から数えて6親等までのルーツの詳細を調べました。傍系には委任状が必要です。そこに書かれている名前と血族の繋がりを大きな紙に書き込んで行きました。

孫から数えて8世代に渡り作成し、一覧表のグラフにしています。江戸時代後期の先祖の名前もあります。男性は '' 彦右衛門 や 重兵衛 '' 女性は '' ハツ や トク ''など時代劇にて出て来そうな名前が沢山有りました。

私の父方の祖父は高野山から更に山奥の出身です。山で木炭を焼いて馬の背中に乗せ高野山の寺々に燃料の木炭を売りに行く家業をしていたらしいです。明治~大正時代の頃です。馬が歩いた山道は、熊野古道として世界遺産に登録されています。昭和の初めに山を降りて、紀の川沿いの村に引っ越した様です。

私の父方の祖母は紀の川沿いの村で、旅館の長女として生まれて大きく成り、高野山の更に山間にある祖父の家に嫁ぎました。祖父が生活用品を買出しか何かの所要で祖母の旅館に宿泊した時に、知り合ったと思います。10年位嫁ぎ先の山間の家で暮らした後、祖母の育った村に子供と一緒に家族で戻り、場所を変えて旅館の支店を新築しました。大阪の難波から高野山への電車が開通した時に、祖父母が新しく出来た駅の近くに旅館を建てました。

私の母方の祖父は泉州のある町の庄屋をしておりましたが、小生が生まれた時には既に亡くなっており顔は知りません。屋敷の周りは土塀で囲まれており、敷地の中に大きな蔵が3棟も有りました。蔵の中は明かり取りの小さい窓のみで薄暗く子供ながら中に入るのは怖かった事を思い出します。

私の母方の祖母は泉州の近隣から祖父の家に嫁いでおり、夏休みに数週間の長くに渡り兄弟と遊びに行くと、喜んで迎えてくれ優しい祖母でした。海は歩いて10分位の所に有り従兄弟の子供達と海水浴をするのが楽しみだった。

父方の祖父母は山間部の出身、母方の祖父母は臨海部の出身であり、子供の頃は海と山の両方を体験する事が出来ました。

家系図を見ると、父方の祖父の兄弟姉妹は9人いて昔の1家族は多人数だったと思います。更に女房の方の家系図も同じ様に作りましたが、兄弟姉妹が11人と言う驚く人数で、少子化対策も一気に解消できると思います。

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この記事へのコメント

2014年06月13日 01:54
庄屋さんのご先祖様、お蔵の数から農耕地の所有大きさを感じますね。庄屋さんでこそ屋敷回りが塀ですね。
ご実家の旅館業のスタートは、なるほど鉄道開通があったからですか。。街のみなさんの宴会などもなさっていたのでしょう。
お過去帳だけでなく、女、男のご先代さまの系図を8代前まで。。これは大変な作業ですね。
華の熟年
2014年06月13日 10:20
さとし君さん こんにちは。

母の実家は地元でも知られた家柄でしたが、戦後の農地改革で小作人に土地を分配して譲り渡し、私が小学生の頃は比較的に質素な生活をしていました。お彼岸には墓参りに行きますが、墓地の数百基ある墓石の中では真ん中にあり、1番大きいので見つけ易いです。

鉄道の開通に合わせて旅館と食堂を開業したので商売が繁盛したらしいです。旅館の建築資金で多額の負債を抱えておりましたが、直ぐに返済出来た様です。さとし君さんのおっしゃる様に、宴会では芸者さんが踊り、太鼓・三味線などの楽器も使っていました。戦時中は疎開先としての宿泊地と成っていました。

家系図を作成にあたり6親等まで調査可能です。孫が2親等であり、合計で8世代です。
2014年06月13日 14:29
鉄道の開通に合わせて、同じように開業を、私の実家の祖父がしました。なので再コメントしたくなりました。唐松程度の木材であれ、北富士山麓から馬車鉄道で、都内に搬送したことが、近在の川に発電所を建設。電気鉄道線路になった昭和の3年ころ、登山者の大増加を見込んで、祖父は山小屋を2件開設しました。土地謄本は街の銀行に値する大地主のお方や親戚から全ての筆が担保設定されてました。
団塊なので、子供心に料理屋さんからの三味線の音色を憶えておりますよ。慶弔会のなんでも料理屋さんでしたね。
家系図作成、さぞかしご先祖もお喜びでしょう。お母さんのご実家はそうでしたか、農地解放で。。季節や日時で日雇いの農作業者を雇ったほうで、ご自分では田植えもしなかったかも。。ですので、人をとりもつことが料理を含めてお上手だったでしょう。
華の熟年
2014年06月13日 21:38
さとし君さんへ

富士山の登山者の増加を見越して山小屋を開設したとは先見性がありましたね。やはり商売は時代の変わり目に一歩先を行くのが極意でしょうか。私は会社勤めしか知りませんが、現在でも通じると思います。おっしゃる様に農作業は作物の手入れの必要な時に、懇意にしている日雇い人に任せていた様です。

私の生い立ちを神仏霊場巡りと併せて、シリーズの通し番号で書いて行きたいと思っています。

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